2022-07-19

フーバーによる自由放任への攻撃

経済学者、マレー・ロスバード
(1963年)

もし政府が不況を悪化させるのではなく、和らげたいと望むなら、唯一の有効な手段は自由放任、つまり経済を放っておくことである。物価、賃金率、企業の整理が干渉を受けない場合にのみ、必要な調整がスムーズに行われる。

政府が不安定な経済状態を支えれば、経済の清算を先送りし、不健全な状態を悪化させる。賃金の引き上げは大量の失業者を生む。価格の引き上げは売れ残りを長引かせ、作り出す。

1929年以前の米国では、自由放任がほぼ伝統的な恐慌対策だった。その先駆は1819年の米最初の大恐慌で、連邦政府は自身への債務者の支払い条件を緩和しただけだった。ヴァン・ビューレン大統領も1837年の恐慌で、断固たる自由放任主義を打ち出した。1920〜21年の恐慌では、政府の介入は大きくなったが、賃金率が低下するに任され、政府支出の削減と減税が実施された。この不況は一年で収束した。

自由放任は理論的にも歴史的にも正しい政策だった。しかし1929年、無残にも崩れ去った。ハーバート・フーバー大統領(共和党、在任1929〜1933年)率いる政府は、「フーバーのニューディール」に乗り出したのである。フーバーは恐慌の発生直後から、自由放任の原則をことごとく破る方向に舵を切った。その結果、経済は未曾有の大不況に陥り、三年半たっても回復の兆しが見えず、25%の失業率という前代未聞の状況で退任した。

フーバーは、不況に対処する政府計画を創始した役割を、歴史家に不当に軽視されてきた。フランクリン・ルーズベルト(民主党)は、前任者(フーバー)が始めた政策に手を加えたにすぎない。フーバーによる不況克服の失敗を自由放任主義のせいだと嘲笑すれば、歴史の記録を誤ることになる。フーバーの失敗は、自由な市場経済の失敗ではなく、政府計画の失敗と位置づけなければならない。フーバー政権の介入政策を説明するために、1932年秋の大統領選でフーバー自身がまとめたものを引用しよう。

政府は何もしなかったかもしれない。そうしたら完全に破滅していただろう。その代わり、民間企業や議会に対し、米国史上、最も巨大な経済防衛・回復の政策を提案し、この状況に対処した。政府はそれを実行に移した......。米国のどの政府も、このような時代にリーダーシップを発揮するために、これほど広い責任を負っていると考えたことはなかった......。恐慌の歴史で初めて、賃金が下がる前に、企業の配当、利益、生活費が減らされた......。それは生活費が減り、利益が事実上なくなるまで続けられた。現在では、世界で最も高い実質賃金となっている。

フーバーは、「近代的」な政治理念や「近代的」な経済学者が提供する新しい「道具」を迅速かつ強力に使用することを怠らなかった。その結果、米国はかつてないほど疲弊した。しかし皮肉なことに、フーバー退任時の悲惨な経済状態は、民主党の評論家たちによって、フーバーが自由放任という時代遅れの教義に執着したせいだとされた。

(次より抄訳)
Hoover's Attack on Laissez-Faire | Mises Institute [LINK]

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