2020-11-28

水木しげる『ねずみ男の冒険』

人は幸福を求める

「ナッジ」という言葉を最近よく耳にする。新聞の記事によれば、「人の判断や選択を心理を操るようにして望ましい方向に変える行動経済学に基づく手法」のことだ。政府もこの手法を活用しようとしているらしい。

この本の主役が聞いたら、「ばかな」と一笑に付すに違いない。人は他人から指図されなくても、自分にとって一番「望ましい方向」、つまり幸福を求めて行動するものだし、自分にとって何が幸福かは、他人にはわからないからだ。

水木しげるマンガの人気者、ねずみ男が登場する傑作短編のアンソロジー。収録作品の多くは、幸福をテーマとし、飄々としたユーモアのうちに深い考察をのぞかせる。

ねずみ男は作品によって異なる役を演じるが、だいたいの相場は決まっている。幸福になりたい人をたぶらかす詐欺師か、妖しい術でつかの間の幸せを味わわせる妖術使いだ(以下、ネタバレあり)。

「『幸福』という名の怪物」では、さえない会社員の男がねずみ男から声をかけられ、喫茶店でコーヒー、ケーキをおごらされるのと引き換えに、幸福の卵をもらう。不気味な怪物が生まれ、成長するとともに、会社員夫婦に次々と幸福が舞い込む。男は会社で出世を重ね、妻は日に日に若返り、美しくなってきたと喜ぶ(マンガではあまり変わりばえしないのがおかしい)。

しかし、夫婦の欲望が際限なくエスカレートするにつれ、幸福の怪物は巨大に膨れ上がり、ついに破裂。夫婦はがっかりし、妻は「明日からまた不運がやってくるわ」とこぼすものの、強欲の罰として地獄に落ちるわけではなく、以前の貧しく平凡な日々に戻るだけである。夫婦は愚かだったけれども、それもまた人間だとして認める、作者の冷めたまなざしと寛容な心を感じる。

「錬金術」では、それがさらに顕著だ。江戸時代の町人とおぼしき夫婦が、ねずみ男扮する仙術の先生から、石や瓦を金に変えるという錬金術を教わる。ところが何度指導を受けても失敗ばかり。爆発で家が壊れても、夫婦はくじけるどころか、またやりなおしだと言って、希望に満ちた笑い声を発する。

見かねた息子の三太がねずみ男を訪ね、両親をこれ以上まどわさないでほしいと頼むと、ねずみ男は「まどわす? ばかな」と答え、こう諭す。「錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得るところにあるんだ。人生はそれでいいんだ……」

このねずみ男の言い分を、詐欺師の自分勝手な主張と思うかもしれない。けれども、夫婦は最初は騙されたかもしれないが、いつまでもねずみ男に操られているわけではない。自分たちなりの判断と選択に基づき、錬金術にのめり込んでいるのである。それは非科学的かもしれない。しかし、この世の終わりに最後の審判で天国に行くか地獄に行くかが決まるという非科学的な教えを信じていても、その人たちが不幸だとは言えない。錬金術も同じだろう。

いつもは幸福を商売道具にするねずみ男自身、幸福を渇望してやまない。「幸福の甘き香り」では、人に熱弁をふるい、催眠術までかけて財布を騙し取るものの、中身はたったの三文。「バカバカしい! 赤字だ」と怒り、「わしも天地がすぎゆかぬうちに、『幸福の甘き香り』がかぎたい……」とつぶやきながら、去っていく。

人は誰も生きている限り、幸福を求める。あなたを幸福にしてあげたいからと「ナッジ」でお節介を焼く大臣や役人も結局、利権や名誉によって自分が幸福になりたいからそうしているにすぎない。ところが彼らはねずみ男と違い、幸福になるために他人を利用しているという自覚がない。困ったものだ。 

>>リバタリアンのマンガ評

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