2020-11-07

海洋帝国の光と影

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は7月29日に公表した報告書で、難民・移民がアフリカ大陸を陸路で移動中、砂漠や紛争地で深刻な危険にさらされ、すでに数千人規模の死者が出ているとの推計を明らかにした。それでも自由や豊かな生活を求めてアフリカ・中東から欧州を目指す人々は、後を絶たない。

モロッコの北、地中海に面したスペインの飛び地セウタは、難民・移民が欧州を目指す際の経由地の一つとなっている。1993年、モロッコとの国境にフェンスが築かれたが、その後も難民・移民がよじ登り、侵入を繰り返している。


セウタは1580年までポルトガル領だった。同国が先陣を切った欧州の海外進出、いわゆる大航海時代の出発点となった由緒ある土地である。セウタを起点にポルトガルが築いた「海洋帝国」の光と影は、現代の国際社会への教訓にもなる。

アジアの海の交易がそれまでにない活況を呈するようになった15世紀、欧州では新たな海外進出の試みが活発になる。その背景には、マルコ・ポーロが「東方見聞録」で紹介した「黄金の国ジパング」に代表される東洋の富への憧れ、オスマン帝国の地中海進出への危機感、当時の欧州の食生活に欠かせないものとなっていた香辛料の直接入手への期待などがあった。

アジアを目指す動きを最初に活発化したのは、レコンキスタ(国土回復運動)によって13世紀にイスラムの支配を脱していたポルトガルだった。

ジョアン1世が1385年に即位して興したポルトガルのアビス朝は、海商を中心とする商工業者によって支持され、初めから海外志向を持っていた。ジョアン1世は1415年、3人の王子たちに騎士団を指揮させ、イスラムの拠点セウタを占領した。これがポルトガルの海外進出の足がかりとなる。

セウタ攻略に参加した王子の1人、エンリケ航海王子はその後、航海術や地理の研究を支援し、アフリカ西岸航路の開拓を強力に推し進めた。

1481年に即位したジョアン2世は、有力諸侯との権力争いに勝利して王権を強化し、今度はインドへの新航路を求めてアフリカ南端を探検させる。1488年、バルトロメウ・ディアスはついに喜望峰に達した。

次いで即位したマヌエル1世は、傍流の六男でありながら偶然が重なって王位に就き、「幸運王」と呼ばれた。それだけでなく、在位中にインド航路の開拓という吉事にも恵まれる。

王の命を受けた貴族バスコ・ダ・ガマの船団は1497年、大海に乗り出す。喜望峰を回り、アフリカ東岸のマリンディでムスリム(イスラム教徒)の水先案内人を雇った。そこからインドまで行くネットワークはすでに何百年も前から、ムスリム商人らによって構築されていたからだ。

こうして1498年、ガマはインド西海岸のカリカット(現コジコーデ)に到達し、欧州とアジアを直結するインド航路が開かれた。

カリカットは当時、マラッカやアラビアからやってくる商人たちでにぎわう、世界最大級の港市国家だった。欧州人が初めて直接目の当たりにするインドの富は、まさに目も眩まんばかりだった。

ここでガマは多数の大砲を備えた軍艦や鉄砲を用いて、暴力的な取引や略奪を行い、膨大な胡椒や財貨を獲得した。

ポルトガルや、同時期に海外進出したスペインがネットワークを築く方法は、これまでの海洋の歴史ではあまり見られない、非常に暴力的なものになった。「彼らは、自由な海に土足でふみこむ乱入者だった」と歴史学者の北村厚氏は指摘する。

インド航路を開拓したポルトガルは、香辛料を独占するために、すさまじいスピードでインド洋に進出する。アフリカ東海岸のモザンビークに要塞をつくり、大砲を備えた艦隊をインド方面に派遣した。

1505年にセイロン(スリランカ)島、1510年にゴアに進出。11年にアジア大交易ネットワークの結節点にあって繁栄していたマラッカ王国を攻撃し、陥落させた。こうして翌12年、クローブやナツメグといった高級香辛料の産地であるモルッカ諸島に到達し、香辛料交易のルートを確保した。1557年にはマカオに居住権を得て、日本と中国との間の交易にも参加していく。

当時、アジアの大交易ネットワークはすでに成熟期に入っており、ポルトガルも目新しくはあったが、一参加者にすぎなかった。ところが前出の北村氏によれば、いくつかの点でこれまでの海洋ネットワークの担い手たちとは大きく異なっていた。

第1に、港市を軍事占領していったこと。それまで自由な海の主体は商人であり、戦争とは無縁だった。

第2に、交易ルートを独占的に支配しようとしたこと。これまで海洋ネットワークで国家が支配するのは自国の沿岸部にある港市、つまりネットワークを結ぶ点だけだった。ポルトガルは点を結ぶ線をも支配しようとした。

第3に、本国から遠く離れた海域を支配しようとしたこと。ポルトガルのようにユーラシア大陸の反対側まで拠点をつくり、本国から続くすべての海洋を自国の拠点でつないでしまおうなどという試みは、前代未聞だった。

ポルトガルのように、領域の支配によらず、海上ルートの支配によって複数の世界を結ぶ交易の独占をはかる国家を海洋帝国と呼ぶ。

海洋帝国の系譜はその後、オランダや英国に引き継がれていく。現代の米国も世界各地に多数の軍事基地を構える点で、海洋帝国の一種と言えよう。

ポルトガルの海洋帝国は、世界のネットワークを広げたという光の部分がある一方で、それを軍事と暴力によって実現したという影の部分がある。その二面性はその後の海洋帝国にも多かれ少なかれ共通する。

現代のアフリカ・中東の難民問題の背景には、過去の欧米の植民地支配や、近年の軍事介入による政情不安がある。それは遡れば、約600年前のセウタ奪取から始まったポルトガルの海洋帝国に行き着く。

世界の政治・経済問題は、軍事力ではなく、自由な商業活動によって解決していくのが望ましい。海洋帝国の光と影は、そんな教訓を投げかける。

<参考文献>
増田義郎『図説 大航海時代』(ふくろうの本)河出書房新社
宮崎正勝『ザビエルの海―ポルトガル「海の帝国」と日本』原書房
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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