2020-09-12

ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け』

福祉国家の地獄


「地獄への道は善意で敷き詰められている」という諺に、福祉国家ほど似つかわしいものはない。本書では、北欧諸国と並び福祉国家の一つのモデルとされてきた、英国の悲惨な現実を知ることができる。


英国の医療制度は大きく、無料のNHS(国民保健サービス)と有料の民間医療施設の二つに分かれる。無料の医療サービスがあるとはすばらしいと思うかもしれない。ところが、地獄はこちらのほうなのだ。

英国在住の著者によれば、NHSを利用する場合、まず地域の診療所に行って、GP(ジェネラル・プラクティショナー)という主治医に診てもらわなければならない。そこでGPが必要と判断すれば、外科や内科などの専門医に紹介所を送ってくれ、専門医から患者に予約日時の連絡が来る。

しかし実際には、スムーズには運ばない。著者の近所の診療所でGPに診てもらうアポを取るためには、以前は朝8時に電話をかけることになっていたが、電話が殺到するため廃止になり、朝8時に診療所に直接来なければならなくなった。寒い冬の朝も、診療所の玄関前は開業前から長蛇の列だ。しかもあくまで予約を入れるための列だから、受付で予約を入れたらいったん帰宅して予約時間にまた出直す。

数年経って仕組みが変わり、並ぶのは同じだが、まずGPに電話で症状を説明する予約を取ることになった。GPが実際に診る必要があると判断したときだけ、診察の予約を入れてもらえる。しかし電話の時間指定はできない。

だから、「朝早くから診療所の前に並び、受付で医師から電話を貰う約束を取り付けると、その日は仕事を休んで一日ずっと電話に備えて待機していることにでもしないと、もはや診察予約を入れることすらままならない」(14. Killing Me Softly——俺たちのNHS)。

夢の医療制度であるはずのNHSの現実がこれだから、多くの人は有料の民間病院を使うようになる。ところが貧しい人はそれが経済的に難しい。著者の夫はひどい頭痛に悩まされていても、何カ月も治らず、専門医に診てもらうことすらできない。癌科のアポですら9週間後だという。

政府が医療に介入し、サービスの対価を無料にすれば、需要量は急増し、サービス不足に陥る。これは経済学のイロハだ。貧しい人を医療不足から救うには、政府の介入をやめ、市場競争によって安価で高品質な医療サービスを提供すればよい。

反緊縮財政を叫ぶ著者は、残念ながらこの正解に気づいていない。それでも福祉国家の地獄をありのままに描いたことは貴重だ。

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