2020-09-03

福岡市、若者増加で活況の秘密は、2000年前の朝鮮との自由貿易

福岡市の活気が注目されている。少子高齢化が進む日本は2018年まで9年連続で人口減に見舞われているのに対し、若者を中心に人口が増加中だ。ビジネスも活発で、開業率は日本の大都市でトップとなっている。

福岡の活力を支える要因は、日本の大都市圏で最も短い通勤・通学時間、日本の主要都市で最も安い食料物価などさまざまだが、なんといっても見逃せないのは、アジアとの近さだ。中国・上海までは東京より近く、韓国・釜山までは大阪より近い。この立地の良さから観光やビジネスで訪れる外国人が増加している。

著者 : 田中史生
KADOKAWA/角川学芸出版
発売日 : 2016-01-22

福岡は、奈良・平安時代には遣唐使を博多港から送り出したり、豊臣秀吉や徳川家康の時代には博多の商人たちが朱印船に乗って朝鮮や中国、東南アジアとの貿易に乗り出したりと、歴史的にも貿易を通じたアジアとのつながりが強いことで知られる。じつはそのつながりはさらに古く、弥生時代にまでさかのぼる。

戦後、考古学的な調査の増加と技術の進展により、重要な集落や物流拠点が次々と発見され、日本列島とアジア間の交易ネットワークが復元できるようになってきた。そこから浮かび上がるのは、東アジアの政治の波を受けながらも交易の中心地のひとつとして存在感を示す、現在の福岡を含む九州北部の姿だ。


日本に商業経済と都市文明を持ち込んだ中国人


中国・前漢の武帝が紀元前108年、朝鮮半島に置いた楽浪郡など4郡は中国本土から多くの官吏・商人らが移住する。楽浪郡は現在の北朝鮮の平壌を中心とし、今でも平壌市内を流れる大同江を通じて東アジアの海に開けた海港都市としての性格を持つ。

当時、倭(わ)と呼ばれた紀元前1世紀頃の日本について、中国の歴史書『漢書』地理志は「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり」と記す。倭人の地を、楽浪郡を起点にその「海中」にあるとしたのは、ここが中国王朝の海域世界をにらんだ拠点となったからである(田中史生『国際交易の古代列島』)。

中国の商人が船で日本列島を訪れての交易は、それ以前も細々と続いていたとみられるが、楽浪郡などの設置を境に加速する。前出『漢書』地理志によれば、日本列島に「国」と呼ばれるものが百余りでき、そこから毎年決まった時期に、倭人たちが中国の皇帝に敬意を表しにやって来たという。

この「国」とは今でいう都市であり、日本に住み着くようになった中国商人(華僑)の居留地を中心に、海岸に形成された。もっと古い時代には、集落は海岸の低地にはなく、高地にあった。海岸の低湿地には風土病が多く、そのままでは住めなかったからだ。中国商船が定期に来航するようになってから、河口などに人間の定住する場所ができ、住民の食糧を供給する必要から農園ができ、農業が発達した。日本列島に商業経済と都市文明を持ち込んだのは中国人だったのである(岡田英弘『倭国-東アジア世界の中で』)。

朝鮮半島から対馬・壱岐などの島々を経て、さらに船で南へ向かうと、九州本土北岸に到着する。その主要港湾のひとつ、博多湾口に面した志賀島(しかのしま)では、江戸時代に「漢委奴国王」と刻された金印が発見された。『後漢書』東夷伝の伝える、後漢の光武帝が紀元57年、朝貢してきた奴国(なこく)の王に与えた印である。

奴国の中心部といわれる福岡県春日市の遺跡からは、紀元前1世紀前後の中国鏡が多く出土し、中国との交流があったことがわかる。一方、博多湾の西には糸島半島と糸島平野がある。ここは『魏志』倭人伝に登場する伊都国(いとこく)の所在地とされ、やはり中国との交流が活発だった。

卑弥呼がもたらした交易の安定と発展


しかしやがて危機が訪れる。紀元184年に起こった農民反乱、黄巾(こうきん)の乱などを背景に後漢が衰退。楽浪郡の影響下にあった倭人社会に動揺をもたらす。『魏志』倭人伝によれば、この混乱を収拾するため、倭の諸国の支配者たちが共に王として擁立したのが、邪馬台国の女王・卑弥呼だった。

邪馬台国の所在地が近畿か九州かは長く論争が続いているが、近年、考古学を中心にこれを奈良盆地に求める説が有力となっている。かりにそうだとしても、九州北部が対アジア交易で重要な役割を果たし続けていたことは間違いない。

その事実は、卑弥呼が糸島の伊都国に「一大率(いちだいそつ)」という地方官を常駐させたことにも表れている。卑弥呼の時代、博多湾には朝鮮半島と行う倭韓交易の拠点が築かれ、西日本各地の人々が集まり国際交易は盛り上がりを見せていた。卑弥呼の王権は一大率によって博多湾の秩序を保ち、交易の安定と発展を図っていたとみられる(前出『国際交易の古代列島』)。

一大率は、邪馬台国が中国・三国時代の強国のひとつ、魏との外交を独占する役割も担ったが、交易は独占しなかった。邪馬台国が中国の皇帝との間に行う朝貢交易が、絹製品など贅沢品を中心とする限定された数年間隔の交易だったとすれば、倭韓交易は鉄や穀物が盛んに取引されたようだ。政府が規制や関税で民間の貿易を制限する現代より、自由だったといえる。

グローバルが社会を活気づける


さて、以上述べてきた約2000年も前の北部九州の姿から、現代に通用する教訓をいくつか導くことができる。

まず、経済のグローバル化は地方を衰退させず、むしろ元気にするということだ。これは現在の福岡に当てはまるだけではない。島根県古代文化センター主任研究員の吉松大志氏によれば、卑弥呼前後の時代、山陰地方も日本海を介した一大交易拠点だったという(『古代史講義-邪馬台国から平安時代まで』)。これからの山陰地方も福岡同様、朝鮮半島やロシア沿岸部との近さを生かし、活力ある経済を築く可能性がある。

次に、活力ある都市を生み出すのは政治の力ではなく、自由な経済活動ということだ。邪馬台国が近畿にあったとすれば、博多湾は当時の政治の中枢から遠く離れていたことになるが、それにもかかわらず、いやそれだからこそ、沿岸に活気ある都市が生まれた。

ジャーナリストの牧野洋氏は著書『福岡はすごい』で、アップル、グーグル、マイクロソフトなど大手IT(情報技術)企業が本社を置き、米国全体の成長エンジンとなっている米国西海岸と福岡の共通点のひとつとして「政治・経済中枢機構から離れている」ことを挙げる。権威主義的な中枢から離れているからこそ、既成観念にとらわれない自由な発想ができるともいえるだろう。

最後に、人のグローバル化も社会を活気づけるということだ。古代の日本列島は、中国大陸や朝鮮半島からやって来た人々によって新たな文化を育んだ。アジア系を中心に多くの外国人が訪れる現在の福岡も、未来の日本文化の発信地になるかもしれない。

ただし人のグローバル化は、あくまでもビジネスや留学、旅行など受け入れ側の合意に基づくものでなければならない。政府が受け入れを強制すれば、むしろ社会に混乱と反発をもたらすのは、欧州連合(EU)の移民・難民政策を見れば明らかだ。

<参考文献>
田中史生『国際交易の古代列島』角川選書
岡田英弘『倭国——東アジア世界の中で』中公新書
佐藤信編『古代史講義——邪馬台国から平安時代まで』ちくま新書
牧野洋『福岡はすごい』イースト新書

Business Journal 2018.10.25)

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