2020-08-22

フロム『自由からの逃走』

自由は個人を孤独にしない


資本主義に対するよくある批判の一つは、それが個人を互いに孤立した原子のようにしてしまうというものだ。この批判は正しくない。自由な市場経済は個人を孤立させるどころか、血縁や地縁を超えて多くの人々の協力を可能にする。


ところがロングセラーとして名高い本書『自由からの逃走』の序文で、著者フロムはこう断じる。「自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした」(日高六郎訳)。まさに誤った資本主義批判そのものだ。

フロムはこの誤った前提に基づき、延々三百頁余り、おかしな議論を繰り広げる。

たとえば、ガソリンスタンドの店主は「ガソリンや油をいっぱいにするという同一の行為を、くりかえしくりかえし機械的に反覆する」だけで、「熟練や創意や個人的活動のはいりこむ余地は、むかしの食料品屋よりもはるかにすくない」という(第4章)。

フロムはガソリンスタンドに行ったことがないのだろうか。少なくとも日本では、単にガソリンを売るだけではなく、洗車やコーティング、タイヤの販売、カフェやキッズスペースの設置、レンタカーへの進出、果ては野菜や果物の販売まで、涙ぐましい創意工夫を凝らしている。

また、フロムは言う。百貨店に入った買物客は「その巨大な建物と数の多い使用人、豊富に陳列された商品によって圧倒される。これらすべてによって、かれは自分がどんなに小さな、とるにたらぬ存在であるかを感ずる」(同)。そんなに怖いところなら、お客はなぜわざわざ出かけていくのだろうか。

それほど強大無比に見えたデパートも、今ではネット販売に押されて存亡の危機に立つ。市場経済の下では、どんな巨大企業も永遠に安泰ではいられない。主権を握っているのは、自由に選択できる消費者だ。個人は無力ではない。

資本主義への的外れな批判は結局、社会主義の支持に行き着く。フロムは言う。「社会の非合理的な無計画な性格〔=資本主義〕は、社会そのものの計画され協定された努力を意味する計画経済におきかえられなければならない」(第7章)

フロムは、ソ連の国家社会主義が人民を抑圧したと認めるものの、自分の提唱する「民主主義的社会主義」が同じ轍を踏まない根拠は何も示さない。実際は、中途半端な規制では政府は経済を思うように支配できないから、ソ連やナチスドイツのような全面統制に向かわざるをえない。

資本主義が個人を孤独に陥れ、その結果、個人はナチスへの依存と従属を求めた——。これがフロムの議論の根幹だ。その議論が結果として、ナチスと本質的に変わらない社会主義体制を解決策として示すことになるとは、これ以上の皮肉はない。

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