2020-08-16

諸星大二郎『西遊妖猿伝』

国家という盗賊


神学者アウグスティヌスによれば、国家は盗賊と変わらない。規模の違いがあるにすぎない。これは時代を超えた真理である。諸星大二郎が1980年代から断続的に描き続けている傑作マンガ『西遊妖猿伝』を読めば、それがよくわかる。


この壮大な物語は、中国の有名な『西遊記』を下敷きにしているけれども、主人公の孫悟空は、猿ではなく人間の若者だ。強大な妖怪・無支奇から「斉天大聖」の称号と超人的な力を授かり、民衆の怨念のために権力者と戦うよう宿命づけられる。

隋の皇帝煬帝は公共工事や対外戦争に人民を駆り出し、多くの命を奪った。隋の滅亡後、中国各地に軍事勢力が乱立。一時は天下に皇帝が十人もいるという状態になるが、その中から唐が他勢力を屈服させていく。この時代、物語の幕が開く。

悟空が初めてその人間離れした力を発揮するのは、羊泥棒のかどで捕われ、黄河を護送される船上でのことだ(大唐篇、第1巻)。

病気で熱があるのに船を引く仕事に駆り出された民衆の一人を、唐の役人が「お上の仕事を仮病でごまかそうってのか!」「誰が賊を滅ぼしてお前たちが飯を食えるようにしてやったと思ってるんだ!」と棒で打つ。打たれた男はこう言い返す。「お前らだってその賊とかわりねえじゃねえか。何がお上だ!」

事実、唐は乱立した軍事勢力の一つにすぎなかったのだから、この指摘は正しい。さらに男は叫ぶ。「隋が唐にかわっただけだ。きさまら役人はいつだって、おれたちの生き血を吸ってるダニだ!」

役人は怒り、男を殴り殺そうと何度も打ちすえる。この様子を目の当たりにした悟空は、怒りとともに超人的な力が目覚める。檻を破って甲板に踊り出し、大きな帆柱を振り回して役人どもを次々に河へ叩き落とす。

もちろん小役人は国家権力の末端にすぎない。その後、悟空は仲間とともに皇帝李世民の命を狙って長安の王宮に乗り込み、大乱闘を繰り広げる。悟空によって馬小屋から放たれた多数の馬が宮城内を暴走するシーンは、黒澤明の映画のような迫力だ(大唐篇、第4巻)。

物語の後半、悟空は僧の玄奘に従い、天竺(インド)を目指す。真理を知るため、命の危険を冒しても仏教の原典を確かめるのが玄奘の目的だ。

インド哲学者の中村元によれば、インド仏教では、アウグスティヌスと同じく、国王と泥棒を同列に見ていたという。真理は洋の東西を問わない。

今の先進国では昔ながらの強制労働こそ影を潜めたが、税という名の搾取に民衆が苦しむ状況は変わらない。国家という盗賊と戦う悟空の活躍から、これからも目が離せない。

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