2020-06-29

ノーベル経済学賞は「ノーベル賞」ではなかった!人類に貢献せず、経済的混乱の要因に

ノーベル賞の季節がやってきた。ノーベル賞といえば、いうまでもなく科学の世界で最高の栄誉とされ、受賞者はその道で最高の権威として一般の人々からも称賛を集める。

ところが全部で6部門あるノーベル賞の中で、「これは本当はノーベル賞ではない」といわれる賞があるのをご存じだろうか。おまけにその賞の対象は、文学賞や平和賞は別として、「科学とは呼べない」という批判まで聞かれるのだ。


それはノーベル経済学賞である。「ノーベル賞ではない」という意見は、別にいいがかりではなく、少なくとも形式的には完全に正しい。一番わかりやすいのは正式名称だ。他の賞の正式名称が「ノーベル物理学賞」「ノーベル化学賞」などであるのに対し、経済学賞は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」という。

スウェーデン国立銀行とは、スウェーデンの中央銀行で、日本でいえば日本銀行にあたる。他の5部門がダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて創設され、1901年に始まったのに対し、経済学賞のスタートは20世紀も後半の1968年。スウェーデン国立銀行が設立300周年を記念してノーベル財団に働きかけ、創設された。だからその名が賞に付けられているわけだ。

経済学賞は、賞金の出所も他の部門とは違う。他の部門はノーベルの遺産をノーベル財団が運用して得た利益を充てるのに対し、経済学賞はスウェーデン国立銀行が拠出している。

経済学賞の受賞者選考は、物理学賞、化学賞と同じく、スウェーデン王立科学アカデミーが行う。ノーベルの遺志にない賞の新設に同アカデミーは当初あまり乗り気ではなく、ノーベルの子孫は今でも賛成していないといわれる。


「偉大な貢献」をしたのか?


形式もさることながら、より重要な問題は内容である。そもそも経済学とは、物理学や化学、生理学・医学と肩を並べるにふさわしい「科学」といえるのだろうか。

ノーベルは遺言書で、賞の対象者を「人類のために最も偉大な貢献をした人」としている。物理学をはじめとする自然科学であれば、ノーベルのいう「偉大な貢献」は具体的にイメージしやすい。

たとえば第1回物理学賞を受賞したレントゲンはX線を発見し、医療や工業の発展に大きく貢献したし、生理学・医学賞を受けたワトソンらはDNAの二重らせん構造を解明し、分子生物学の基礎を築いた。物理学賞を共同受賞した3人の日本人研究者が発明した青色発光ダイオード(LED)は、照明や携帯電話用バックライト、大型ディスプレイなど幅広く実用化されている。

これに対し、経済学はどうだろう。ノーベル賞を受賞した経済学者が人類のために成し遂げた「偉大な貢献」が、何か思い浮かぶだろうか。

最近の受賞理由をみると、「労働経済におけるサーチ理論に関する功績」「資産価格の実証分析に関する功績」「消費、貧困、福祉の分析に関する功績」など、何やら立派そうな「功績」が並ぶ。経済学界の中ではすごいことなのだろう。しかしこの経済学者たちのおかげで労働者の生活が楽になったとか、株や土地の資産バブルを防ぐことができたとか、貧困を減らすことができたとかいう話は聞いたことがない。

それどころか、百年に一度といわれた2008年のリーマン・ショックやその後の世界的な財政金融危機を事前に予測した経済学者は、ほとんどいなかった。1997年に共同受賞したマイロン・ショールズとロバート・マートンが経営にかかわった投資ファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)は、同年発生したアジア通貨危機による市場の変化を読み誤り、破綻した。

お粗末な話はもっとある。1980年受賞のローレンス・クラインは世界各国の経済モデルを結びつけ、およそ3000もの方程式で構成されるとてつもなく複雑なモデルを構築。受賞スピーチでこのモデルに基づく長期予測を披露し、米国で石油価格が上昇し、インフレが続き、財政・貿易収支が赤字から均衡に向かうと予想したが、ことごとく外れた(トーマス・カリアー『ノーベル経済学賞の40年 上巻』<小坂恵理訳/筑摩選書>)。

「えせ科学」


失敗ばかりをあげつらうのはフェアではないと思うかもしれない。「失敗は成功の母」という言葉もある。物理学をはじめとする自然科学も、失敗を重ねながら、そこに改善のヒントを見いだし、正しい法則の発見に結びつけてきた。むしろそうした試行錯誤に基づく発展こそ科学の特質といえる。

だが問題は、経済学に自然科学と同じような、失敗から真理を見いだすメカニズムが備わっているかどうかである。

この点について、著名な物理学者のリチャード・ファインマン(1965年ノーベル物理学賞受賞)が1981年のインタビューで厳しい指摘をしている。経済学を含む社会科学は「えせ科学(pseudo-science)」だと断じているのだ。

ファインマンは言う。

「科学が成功したので、えせ科学が現れました。社会科学は、科学ではない科学の一例です。科学の形式にならい、データを集めに集めるのですが、何の法則も発見できません」

何がいけないのか。ファインマンは続ける。自分は、何かを本当に知ることがいかに大変か、実験を確認する際にどれだけ注意深くなければならないか、人がいかにミスや思い違いをしやすいか、知っている。

ところが社会科学者はそうは見えない。タイプライターの前に座って法則らしきものをこしらえるが、それが正しいかどうかはわからないとファインマンは言う。厳格な手続きでデータの測定や推論、検証を求められる自然科学者から見ると、経済学者ら社会科学者のやり方はいかにもいい加減ということだろう。

ファインマンの批判に対し、経済学者にも言い分はあるだろう。自然科学が扱う物質と違い、生身の人間が動かす経済現象は実験室で実験することはできない。かといって、実験のために経済政策を行うわけにもいかない。せいぜい過去のデータをあちこちから集め、統計のテクニックを駆使してなんらかの法則らしきものを探るしかないだろう。

ファインマンが言うとおり、20世紀以降、経済学は自然科学、とりわけ物理学の「形式」を熱心にまねてきた。現代の経済学論文は、まるで理系の本のようにおびただしい記号や数式で埋め尽くされている。少なくともその見てくれは、あたかも物理学と同格の厳密な科学であるかのようだ。経済学者は「経済学は社会科学の女王」と自画自賛する。しかしその実情は、物理学者のファインマンに言わせれば「えせ科学」にとどまっている。

「見せかけの知」


もし自然科学と経済学のこの落差が、前者は物質を扱うが後者は人間を扱うという性質の違いによるものだとしたら、そもそも自然科学の手法をまねることが誤りだったのではないか。そんな疑問が頭をもたげる。

ごく一部の経済学者はその誤りを認識している。その一人は、1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクである。



ハイエクは「見せかけの知」と題する受賞記念講演で「経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます」と述べた。そして、自然科学の手法を社会科学に機械的かつ無批判に適用する態度を「言葉の真の意味において決定的に非科学的」(『ハイエク全集』第二期第四巻<嶋津格監訳、春秋社>)だと厳しく批判した。

今の世界経済の混乱は、経済学の混迷と無縁とは思えない。経済学は自然科学の模倣という「見せかけの知」から抜け出せるだろうか。今年のノーベル経済学賞は10月10日に発表される。

Business Journal 2016.10.04)*筈井利人名義で執筆

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