昔の日本人の道徳としてしばしば称揚されるのは、武士道精神である。一橋大学特任教授の山岸俊男は『「日本人」という、うそ』(ちくま文庫)で、社会心理学の成果に基づき、武士道に関する思い込みの誤りを暴いている。
武士道精神の一つの特徴は滅私奉公の精神とされる。しかし戦国時代の武士たちは、現代の米国社会と同じように、実力主義の原理で働いていた。自分の能力をきちんと評価してくれない「上司」ならば、さっさと見限って「転職」した。
これに対し、江戸時代の武士は滅私奉公だったといわれる。しかし、これには合理的な理由があった。「転職」がいくらでもできた戦国時代と違い、江戸時代では主君を替えるわけにはいかない。子孫の代までも同じ殿様に仕えることになるから、常日頃から忠義ぶりを示していたほうが得策だったにすぎない。終身雇用制で事実上転職できないサラリーマンと同じだと山岸は指摘する。
江戸時代の武士の行動に少なくとも表面上、打算や私心が一切見られず、人に感動を与えることは事実である。しかしだからといって、その精神を今の社会に持ち込むとおかしなことになる。主君や国家に対する忠誠を何より尊ぶ武士道精神は、近代社会を支える商業道徳とは共存できないからである。
たとえば商業道徳では正直を重視する。ところが武士道では、主君のためなら嘘をついても許される。企業不祥事の背後にある、会社を守るためならば消費者を騙していいという考えは、「武士道的なメンタリティ」であると山岸は述べる。だからこの手の不祥事を武士道精神の復活によってなくそうなどと考えるのは、的外れである。
教育で幼い頃から武士道流の「利他の心」を教え込めという意見もよくある。だがそれはかえって「利己主義者たちの楽園」をもたらしかねないと山岸はいう。教育をまじめに受け止め利他的な精神を身につけた「お人好し」を、利己的な者がいいように利用できるようになるからである。愛国教育が盛んだった戦時中、愛国者のふりをした一部の利己主義者たちが権力を握ったり、不正な利益を得たりしたのはその実例である。
鎖国時代に戻るような武士道復活は日本を滅ぼしかねない。開かれた近代社会にふさわしい商人道こそが求められるという山岸の意見に同感である。
(2015年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
(2015年11月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
武士のなかの武士といへば、伊東祐親の次男伊東祐清、それに幕臣山岡鉄舟、鉄舟の義兄高橋泥舟あたりがモデルとおもひますが、世には認められてゐないことは残念ですね。
返信削除教へてくださつた森田健司『明治という幻想』でも鉄舟、泥舟を高く評価してゐますね。面白い本でした。ありがたうございます。
返信削除『明治維新という幻想』の森田健司さんは、『明治維新という過ち』の原田伊織さんと共著で、『明治維新 司馬史観という過ち』を近々だされるとか。大半のヲヂさんたちは、<サンケイ司馬>に洗脳されてゐますから必要な出版でせうが、森田さんの筆が荒れてこないか、すこし心配です。
返信削除むかしむかし、福田恆存も乃木希典の二百三高地のことで、司馬とやりあつたことがありましたね。
鎌倉時代にまで遡って武士の発生を考えるとその基本的なエートスは自分の開拓農場、つまり私有財産に対する自由主権を守るために中央の権威を力によって抑制する自由意志の精神にありました。その分権主義的基本精神か確かに明治維新に至るまで保存され日本の近代化の原動力ともなりました。皮相的な儒教道徳だけで武士の伝統を見ることは間違いだと思いますよ。武士たちの精神が現代日本の自由主義の根っこにあること、そしてそれが利己主義や全体主義を防ぐための力となることは確かだと思います。
返信削除さうですね、伊東祐清とともに、頼朝妻の正子の弟、北條義時も気にかかるをとこです。要は肝心のときに、勇気をだせたかどうかでせうか。
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