2016-03-23

藤木久志『戦国の作法』


村という権力

本書を手に取った動機は、中世日本における庶民の自衛について知りたかったからである。黒澤明の映画『七人の侍』で描かれた、ひ弱な百姓たちの姿とは違い、中世の村は日常的に自前の武力を持ち、自立した武装の態勢をとっていた。期待どおり、本書ではその方面の知識を得ることができた。

しかし一番衝撃を受けた記述は、他にある。和解の手段として差し出される、身代わりにまつわる事実である。村はふだんから、いざというとき犠牲になりうる人間を養っていた。多くは浪人である。身代わりになるかどうかは明確な約束に基づいていたわけではないようで、本書には、老父が無理やり身代わりにされ処刑されたと村を告発する息子の話が出てくる。

村の上層部は老父に対し、「処刑を決めたのは領主で、思いとどまるよう取りなしたがダメだった。不運だと諦めてくれ」と見苦しく言い訳したうえ、「子孫まで末代」補償するとしていた証文を、いつの間にか「三人」(三代の意味か)に改竄していたという。

ここに見られるのは、現代と変わらぬ権力の本性である。権力者は祖国や共同体を守るためと称して、他人に生命・財産を差し出すよう求める。それが本人の意思に基づくものならよい。しかし強制は人間の尊厳を踏みにじるものである。

中世の村の自衛は、国家が防衛を独占した現代にとって貴重な示唆を与える。だが同時にそこには、現代国家と同じ血の匂いが立ち込めている。

<抜粋とコメント>
"中世の村は…村のために犠牲となるような存在を、それも正規の村落構成員の家(私的隷属)の外側に、日常的に村として扶養しておく態勢をとっていた。"
# 「ものぐさ太郎」のモデルは、このように養われた人とか。

"イザというとき、浪人たちが身代わりとなるのは、世話になった町の共同体に報いる、自発的な献身どころか、町のふだんの扶養と引き換えの、逃れられぬ運命"
# いくら養ってもらった恩があるとはいえ、見返りに命を取られてはたまらない。

"身代わりの犠牲の一人や二人出してでも、山のナワバリを武力で勝ち取るのが村のため…「牢人にて、親類もなき者」を犠牲にしたのは、紛れもなく村の共同謀議の結果"
# 村の侵掠戦争の罪を負わされ、身代わりに処刑された無実の戦犯。

"解死人として成敗(下手人として処刑)する、と決定したのは公方(領主)で、村では「その方のがれ候ように、(領主に)様ざまおことわり」したがだめだった、「不運だ」と諦めてくれ"
# 身代わりで処刑される浪人に、村は無責任な言いわけ。

"初め補償の約束に「子孫まで末代」にわたってと明記されていたのに、いつの間にか「末代」の文字が「三人」(三代の意味か)と改竄されている"
# 自分たちの身代わりで死ぬ浪人との約束を破り、補償を減らす村。

アマゾンレビューにも投稿。

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