2015-01-01

国家は憎しみを煽る

あけましておめでとうございます。今年も「リバタリアン通信」をよろしくお願いいたします。

ヘイトスピーチや「反韓本」「反中本」の氾濫など、近隣諸国民への憎悪をむき出しにしてはばからない風潮が強まっている。憎しみの源を探ると、領土問題、軍拡問題、教科書問題など、いずれも国家が独占的にかかわる事柄に発する。市場経済が人々の国境を越えた協力を促すのと対照的に、国家は人々を分断し、互いに反目させる。そして憎しみを煽る。なぜなら人々が国境越しに憎しみ合うことは、国家によって好都合だからである。

19世紀英国の哲学者、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は、こうした国家の悪しき性質を見抜いていた。著書『人間対国家』で、国家はみずからの行為を正当化するため、「憎悪の宗教」というべき思考を国民の間に醸成すると指摘する

スペンサーは言う。文明化されていない社会の人々には、自発的な協力を広範囲にわたっておこなう資質が備わっていない。だから社会進化の長い段階を通じ、政府の権力が必要とされる。それには政府に対する信仰と服従がともなう。それからほんの少しずつ、自発的な協力が強制的な協力に取って代わってゆく。それにふさわしく、政府の能力と権威に対する信仰も弱まってゆく。

しかし政府への信仰はなかなか消え去らない。それが維持されるのはおもに、戦争への適応力を維持するためである。政府への信仰が維持されることにより、政府とその関係者は、攻撃や防御に際し社会のあらゆる力を動員できるという自信を持ち続けられる。だからそれに必要な政治理論も消え去ることがない。

政府への信仰と服従を支える心情と思想は、平和を絶え間なく脅かす。しかし国民が政府の権威を信仰しないかぎり、政府は国民に十分な強制力を及ぼして戦争をすることができない。その信仰はいやおうなく、戦争以外の目的についても政府に国民に対する強制力を与えることになる。

憎悪の宗教(religion of enmity)が友好の宗教(religion of amity)よりも優位に立つかぎり、現在の政治的迷信は揺るがない。欧州各国では月曜日から土曜日まで、支配階級の古い文化によって、戦場で大きな武勲をあげた古代ギリシャの英雄を称え続ける。そしてわずかに日曜日だけ、剣を鞘に納めよというキリスト教の戒めを説くのである――。

スペンサーがいうように、政府は国民を戦争にいつでも動員できるように、国家のために死ぬことはすばらしいという考えを刷り込む。そして敵となりうる国やその国民に対する憎悪を煽る。今は戦時中の「鬼畜米英」「暴支膺懲」のような露骨なスローガンを政府自身がふりかざすところまではいっていないが、それも遠くはないかもしれない。

なおスペンサーというと、社会進化論という弱肉強食の論理を説き、帝国主義を正当化したとんでもない哲学者だと誤解している人が多いことだろう。しかしそれはスペンサーを読んだこともない、あるいはわざと曲解した人々が広めたデマである。上記の文章でわかるように、スペンサーはたしかに社会は進化すると考えたけれども、それは強制的な協力で成り立つ暴力的な「軍事社会」から、自発的な協力で成り立つ平和的な「産業社会」への進化であった。弱肉強食の擁護とは正反対である。

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