2016-02-15

マッツカート『企業家としての国家』


血税による企業家ごっこ


英国の大学で教鞭をとる著者は、経済の発展を支えるのは民間企業であるという常識にまっこうから異を唱え、「企業家精神をもって、経済成長の原動力となり、市場を立ち上げ、かつ、形作ってきたのは国家」(「日本語版への序文」)だという主張を繰り広げる。とんでもない暴論としかいいようがない。

著者はこう述べる。「民間セクターは国家に比べて企業家精神が弱い。国家の投資があらゆる不確実でリスクのある分野に及んでいるのに対して、民間セクターは画期的な工程や製品から逃げる傾向があり、国が不確実でリスクの高い分野に投資してくれるのを待っているのである」(第三章)

もし著者のこの主張が正しければ、国家が経済に関与しなかった時代には、経済は発展できなかったはずである。だがもちろん、それは事実に反する。

米国では第二次世界大戦の前まで、政府が研究開発に関与することはほとんどなかった。しかしすでに十九世紀末ごろには、世界一豊かな国となっていた。それを可能にしたのは、ライト兄弟、エジソン、テスラといった民間の偉大な企業家たちである。

いうまでもなく、ライト兄弟は世界初の有人動力飛行という輝かしい成功を収めた。著者はライト兄弟に言及している(同)ものの、触れていないことがある。それは、政府から資金支援を受けたサミュエル・ラングレーが飛行に失敗したことである。自転車屋のライト兄弟が自前で二千ドルの費用しか使わなかったのに対し、ラングレーは軍から五万ドルもの支援を受けていた

著者は「公的研究費が増加する一方で、民間研究費は減少している」(第一章)と述べ、民間企業の消極的な姿勢を批判する。しかしそれは政府が研究開発に乗り出した結果、民間企業を閉め出してしまったからである。

また著者は、国際政治学者チャルマーズ・ジョンソンの議論に基づき、戦後日本の高度経済成長は、旧通商産業省(現経済産業省)が行った「将来を見据えた数々の政策」によって達成されたと主張する(第二章)。これも誤った見方である。

たとえば通産省は1960年代、対日直接投資の解禁を前に、国産自動車会社が米国の大手メーカーに買収されないよう、トヨタと日産の両グループに統合しようともくろんだ。城山三郎の小説『官僚たちの夏』の世界である。

ところが通産省の意図に反し、ホンダやマツダなどの下位メーカーが抵抗して再編は進まなかった。この結果、国内市場で厳しい競争条件が維持され、かえってその後の日本の自動車産業の発展につながる。寡占体制だった米自動車産業の長期衰退と好対照である。

ジョンソンはこうした事情を無視して、著書『通産省と日本の奇跡』(邦訳1982年)で、「通産省の産業政策ゆえに、日本の自動車産業は発展した」と述べた。これに対し、経済学者で東大教授だった小宮隆太郎は「通産省の存在にもかかわらず、日本の自動車産業は発展した」というのが正しいと批判している(八代尚宏『新自由主義の復権』第三章)。

自動車に限らず、通産省の産業政策の対象になった業種よりも、対象外の業種のほうが成長を遂げたのは、経済学における通説である。

さて、著者は本書で、政府研究機関や政府の支援を受けた大学などによる研究成果をこれでもかと列挙し、だから国家は企業家として優れていると結論づける。この論法は、経済学における最も基本的な原理の一つを無視している。それは機会費用である。

機会費用とは、現実に選択することのできなかった選択肢(機会)がもたらす利得を指す。ある選択がメリットをもたらすとしても、それが適切かどうかは、別の選択によって得られるメリットの大きさと比べなければ判断できない。

本書でいえば、たしかに、政府の研究開発は一定の成果をあげたかもしれない。しかし、そこに投じた資金や人材を民間の研究開発に充てていれば、もっと大きな成果が早く得られたかもしれない。自由放任時代の米国で科学技術が大きな実を結んだ上述の事実に照らせば、むしろそうなった可能性が高いとみるべきだろう。

しかし経済学者であるはずの著者は、機会費用の考えを一顧だにせず、リスクを取る国家の勇敢さをひたすらほめたたえる。これはすなわち、血税を使った投資のコストとリターンについて、あれこれ深く考えるなと言うに等しい。バッキンガム大学の生化学者、テレンス・キーリーは「マッツカート教授にとって、政府が費用対効果に無関心なのは美徳なのである」とあきれたように書いている

あまつさえ著者は、「国はイノベーションに対してリスクの高い投資をしたのであれば、当然高いリスクに応じた見返りを受け取るべきである」(第九章)として、該当産業や技術分野から得られた特許権使用料などの利益の一部を政府が受け取るといった提案をする。さらに、企業が租税回避地などを利用して税逃れをしていると、それが合法であるにもかかわらず非難を浴びせる。

企業が課税強化などのコストを負担させられれば、最終的には値上げなどの形で消費者が負担することになる。なぜ、すでに取っている税金だけでは足りないのだろうか。もちろん、まともな答えなどあるはずがない。政府にも著者にも、リターンに見合ったコストという発想がないからである。他人の金に糸目をつけず、失敗しても給料が減るわけでもなく、果てしなく「企業家ごっこ」に打ち興じられてはたまらない。

本書の帯には、欧米の有名経済メディアによる推薦文が麗々しく印字されている。経済学のイロハを無視した大学教授が、国家が経済の主役になるよう訴え、ジャーナリズムがそれをほめそやす。これでは世界経済が迷走するのも無理はない。

アマゾンレビューにも投稿)

2 件のコメント:

名前を忘れました さんのコメント...

お取り上げいただき、ありがとうございました。
国家だからこそ長期投資ができると嘯いていますが、
・資金調達が野放図にでき
・失敗の責任を誰も取らず、ジャッジもされない
これを社会ではバラマキと呼ぶと思います。
金を撒いて歩くなら、確かに民間では誰もやらないようなリスク・リターンの破綻した投資先でも気にする必要は全くないですね。
楽しそうな仕事です。

最近の社会主義者もそうですが、結局「他人のカネで楽がしたい」この原理で全てが回っている気がします。

こちらの動画にある程度まとまっているようです。
https://www.ted.com/talks/mariana_mazzucato_government_investor_risk_taker_innovator?language=ja#t-464177

木村 貴 さんのコメント...

こちらこそ書くきっかけをくださって、ありがとうございました。
ひどいものですね。
読者からまともに相手にされないことを祈るばかりです。