2015年1月17日土曜日

マネー膨張の限界点

スイス国立銀行(中央銀行)が1月15日、過去3年にわたり維持してきたスイスフランの対ユーロの上限、1ユーロ=1.20フランを廃止すると突如発表した。対ユーロで割高になるのを避けようとフランを無制限に供給してきたが、ついに限界に達した。スイス中銀の決定を受けて外為相場は大混乱となったが、世界が人為的なマネー膨張のツケを払うのはこれからかもしれない。

スイス中銀のバランスシートは過去7年間で5倍の規模に膨らみ、直近では国内総生産(GDP)の100%近くに達していた。「異次元緩和」で膨張した日銀でさえ80%程度だから、いかに常軌を逸した水準かわかる。

スイス中銀は、スイスフランが対ユーロで割高になると景気に悪影響を及ぼすとしてフランを刷りまくってきた。だがそれは不動産バブルという副作用をもたらし、国内で社会問題を引き起こした。欧州中央銀行は22日の理事会で量的緩和を発表すると予想されており、それにつきあってフランをさらに増やすのは無理と判断したとみられる。

中銀の突然の発表を受けてスイスフランは一時30%も急騰、通貨高による輸出減への懸念からスイス株は急落した。スイスの輸出企業は中銀の決定に怒りを表明している。

しかし米経済評論家ピーター・シフ(Peter Schiff)はスイスフラン高について「陳腐な“知恵”とは逆に、スイス国民にとって良いこと」と指摘する。高い購買力のある強い通貨を取り戻したからである。

シフによれば、スイス中銀が事実上の固定相場を維持するためこれまでユーロ買いに投じた金額は、1年あたり国民1人につき約1万ドル(116万円)相当に達するという。「もし際限なく続けていたら、スイス中銀のバランスシートの拡大は限界点を超えていただろう」

同じく米評論家のデヴィッド・ストックマン(David Stockman)はスイス中銀について「これまで嘘をつき、ごまかし、きわどいところで取り繕っていたことを白状した」と批判する。同中銀のジョーダン総裁は繰り返し、スイスフラン相場の上限は重要だと述べていたし、ダンティーヌ副総裁にいたっては、上限廃止発表のわずか3日前、「スイスフランの上限は今後も金融政策の基礎であるべきと確信している」と語ったばかりだった。

ストックマンはこう続ける。「いうまでもなく、嘘がばれる中央銀行家はジョーダンで最後ではない。最初にすぎない。ドラギ(欧州中銀総裁)がもう次に控えている」。次期大統領候補とも取りざたされるドラギ総裁の出身国イタリアでは、公的債務の対GDP比率が2008年の103.6%から2014年は132.6%に上昇している。

欧州に限らない。「日本の金融混乱は欧州にそれほど後れをとっているだろうか。(略)中国が積み上げた26兆ドルの負債は世界金融の風にすでにふらついているのではないか」。ストックマンはそう警鐘を鳴らす。

主要国の政治家たちは中央銀行という打ち出の小槌を頼りに、福祉国家の幻想を振りまいて有権者の票を稼いできた。しかし幻はいつか朝露のように消える。それは今すぐではないかもしれないが、スイス発の衝撃がその序章になる可能性はある。

2015年1月15日木曜日

介入政策の代償

仏パリの新聞社襲撃事件を受け、米欧政府首脳はテロとの対決を口々に表明した。しかし彼らは、テロをもたらした責任の少なくとも一部が自身の外交政策にあることに頬かむりしている。

徹底した自由主義者(リバタリアン)である元連邦下院議員ロン・ポール(Ron Paul)は、事件直後にも問題の本質が米欧の介入主義的な外交政策にあることを指摘したが、その後あらためて、詳しい意見を文章にした

ポールは書く。米国の主流メディアや多くの人々はフランス国民との連帯を唱え、言論の自由のために戦うと誓った。しかしこれらの人々は、言論の自由を定めた合衆国憲法修正第1条が米政府によって繰り返し蹂躙されているのを知らないのだろうか。オバマ大統領は過去の政権すべての合計よりも多くスパイ防止法を適用し、内部告発者を黙らせ、投獄している。抗議者はどこにいるのか。中央情報局(CIA)が水責めその他の拷問をおこなったと告発した、ジョン・キリアコウの釈放を求める抗議者はどこにいるのか。内部告発者は投獄されたのに、拷問をおこなった者は罪に問われない。それでも何の抗議もない。

イスラム過激主義が台頭した責任の少なくとも一端は米仏政府にある。報道によると、パリの狙撃犯2人は夏をシリアで過ごし、アサド政権の転覆を図る反乱軍とともに戦った。フランスの若いイスラム教徒をスカウトし、シリアに派遣してアサド政権と戦わせたともいう。米仏政府は外国兵を訓練・武装し、シリアに潜伏させてアサドを倒すのに4年近くもかけた。言い換えれば、シリアに関していえば、パリの2人の殺人犯は「私たちの」側の人間だった。彼らはシリアと戦うのにフランスや米国製の武器を使いさえしたかもしれない。

1980年代のアフガニスタンに始まって、米国とその同盟国はイスラム教徒の戦士をわざと急進的にし、戦えと言われた相手だけと戦うよう望んだ。米国民が9・11から学んだのは、イスラム教徒の戦士が戻ってきて私たちを襲う場合もあるということである。フランス国民も新聞社襲撃でそれを学んだ。


危険な外交政策がブローバック(しっぺ返し。予期できない負の結末)をもたらすことを知り、米仏政府は考えを改めるだろうか。改めないだろう。政府はブローバックについて考えようとしないからだ。政府が信じたいのは、イスラム教徒の戦士が自分たちを襲うのは、彼らが自分たちの自由を憎んでいるか、自分たちの言論の自由を我慢できないからだというおとぎ話である。

「おそらく私たちみんなをより安全にする方法は、米国とその同盟国がこれら過激派の支援をやめることである」。ポールはそう訴える。

ポールは続ける。襲撃のもう1つの教訓は、9・11後に現れた監視国家は、一般市民をつけ回し、盗聴し、苦しめるのはたいへん得意だが、テロを防ぐのは不得意だということである。

2人の容疑者は長い間、米仏情報機関に監視されていたという。報道によれば、2人は米国の登場拒否リストに記載され、少なくとも1人は2008年、米占領軍と戦うためイラクに渡ろうとしたとして、起訴されている。CNNによると、2人は2011年にイエメンに行き、アルカイダと訓練をした。彼らはテロリストと直接かかわりのある人物だったのである。米仏情報機関はどれくらいの期間、2人について知っており、それなのに何もしなかったのか。そしてその理由は何なのか。

最後にポールはこう強調する。中東における米国と同盟国の強引な外交政策は多数の人々を急進的にし、私たちの安全を損ねた。認めたいかどうかにかかわらず、ブローバックは現実にある。安全を保証するものは何もないけれども、不介入政策だけが新たな攻撃の危険を小さくすることができる――。


ポールの言うとおりだろう。今回の事件を受け各国政府がテロ撲滅のためと称して中東への強権的な介入を強めれば、さらに大きなしっぺ返しが待っているだろう。

2015年1月12日月曜日

禁輸という暴政

オバマ米大統領とキューバのカストロ国家評議会議長は先月、両国が国交正常化交渉を開始すると表明した。米政府は国民のキューバへの渡航や貿易などを制限する措置の一部を撤廃する方針という。これに対し米国内の政治家やメディアから、独裁国家との融和政策などと批判する声が出ている。しかしそもそも政府が国民に対し、特定の相手との貿易を禁止することは、自由を侵害する暴政である。

オバマ大統領の方針に対し、米議会では野党・共和党だけでなく与党・民主党からも異論が相次いだ。共和党のマケイン、グラハム両上院議員は「独裁者、悪党、敵への融和政策であり、世界での米国の影響力を小さくさせる」と批判した

こうした意見に対し、ミーゼス研究所の編集担当者、ライアン・マクメイケン(Ryan McMaken)は疑問を投げかける。「キューバ政府が残忍な政府であることに疑いはない。けれどもなぜ、キューバ政府が残忍だと、キューバの人々と貿易しようとする民間の米国市民を米政府が投獄・迫害してもよいということになるのだろうか」

マクメイケンは書く。禁輸措置を支持するということは、市民が平和裏に自由な取引をしようとするとき、政府が彼らに罰金を科し、起訴し、投獄するのを支持するということである。税関の役人が貿易商と顧客を監視するのを支持し、どの貿易が合法でどの貿易が違法かという政府の勝手気ままな判断に抵触する人々を罰するのに必要な強制執行手続き一式を支持するということである。

マクメイケンはここで、米財務省外国資産管理局が定めるキューバ禁輸措置の具体的な内容を紹介する。そこには次のように定められている。「規則違反への刑事罰は最長10年の禁固刑、法人には最大100万ドルの罰金、個人には同25万ドルの罰金。さらに最大6万5,000ドルの民事罰が科されることがある。キューバと取引のある者(旅行者を含む)は5年間の記録を残し、外国資産管理局の求めがあれば、それらの取引に関する情報を提供しなければならない」。自由な国のルールとは言いにくい。

「禁輸措置は重商主義時代への先祖返りである」とマクメイケンは批判する。16世紀から18世紀にかけての重商主義時代、経済政策は国際問題の道具とみなされ、少なくとも部分的には、自国政府に利益をもたらすよう立案されなければならなかった。

しかし米国を独立に踏み切らせたのは、まさにこの種の経済政策だった。当時、植民地の米国人が貿易を認められたのは、英王室に利益をもたらすとみなされた国や地域だけだった。自由を求める人々は北米東部で広範な密輸をおこない、課税を回避し、民主自由主義のお手本とはいいがたい絶対王政時代のフランスやスペインと貿易をおこなった。

禁輸による経済制裁は、政府が期待する効果をあげにくいと言われる。しかしそれ以前に大切なのは、禁輸措置が自由な社会になじまないことだとマクメイケンは強調する。「私有財産権を重んじる社会はいうまでもなく、禁輸措置など受け入れず、市民が自身の判断で財産を処分する権利を尊重する」。そして痛烈にこう述べる。
私有財産をこと細かに統制し違反者を投獄するのは政府の特権だと信じる人々は、政府がそのようなことを積極果敢にやれるような国に行けばよい。たとえば、キューバに。
国民の自由を抑圧する共産主義国は許せない、だから経済制裁の手を緩めるな――。日本でも対北朝鮮についてよく耳にする意見である。しかしその行き着く先に現れるのは、北朝鮮のように自由の失われた日本自身の姿だろう。

2015年1月11日日曜日

「表現の自由を守れ」は本気か

仏パリの風刺専門紙シャルリエブドの本社襲撃事件を受け、西側諸国の政府やメディア、知識人などから「表現の自由を守れ」と訴える声が相次いでいる。表現の自由はもちろん大切であり、主張そのものに異議はない。しかし事件をきっかけに声を上げた西側政府や言論関係者はこれまで、本気で表現の自由を守ろうとしてきただろうか。

今回の事件の背景には、同紙が掲載したイスラム教預言者ムハンマドの風刺画が背景にあるとみられている。報道によると、フランス国内各地では、市民による犠牲者の追悼と抗議の集会が開かれ、多くの人が新聞名にちなんで「私はシャルリ」と書いたプラカードを掲げて街に繰り出し、同紙への連帯の意思を示した。同紙はあたかも表現の自由の象徴になったかのようである。

こうしたなか、ジャーナリストのグレン・グリーンウォルド(Glenn Greenwald)は事件後、ツイッターでこう指摘した。「2009年、シャルリエブド紙はある記者のジョークが反ユダヤ的だとして、同記者を解雇した。その後、記者はヘイトクライム(憎悪犯罪)に問われた」

グリーンウォルドが紹介した英テレグラフ紙の2009年1月27日付記事によると、解雇されたのはモーリス・シネという80歳の記者。同年7月、サルコジ大統領(当時)の22歳の息子と電化製品チェーンのユダヤ人女性相続人の交際にからみ、息子サルコジ氏がユダヤ教に改宗するという根拠のない噂について、コラムで「出世するよ、あの坊や」と書いたところ、ある有名な政治評論家からユダヤ人への偏見につながると批判された。

シャルリエブド紙のフィリップ・ヴァル編集長はシネに謝罪を求めたが、シネは拒否し、解雇された。解雇には哲学者ベルナール=アンリ・レヴィなど著名知識人が賛同したという。

今回の襲撃事件で表現の自由の象徴に祭り上げられた同紙自身、過去には必ずしも記者の表現の自由を守ってきたわけではないことになる。もちろんホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を経験した欧州で、ユダヤ人への偏見・差別を戒める意見はひときわ強い。しかしそうだとしても、ときにはみずから表現の自由を制限しておいて、ムハンマドの風刺画を描く自由だけは絶対に譲らないと叫ぶのは、他人を納得させられる態度とはいえない。

ユダヤ人差別に限らない。フランスは法律で各種のヘイトスピーチ(憎悪表現)を禁じている。民族、国籍、人種、宗教、性別、性的指向、心身上の障碍を理由とするヘイトスピーチをおこなった者は、侮辱罪の場合で最長6カ月の懲役、最大2万2,500ユーロ(約317万円)の罰金の一方または両方を科される。

しかし何がヘイトスピーチにあたるかという判断には、恣意的な価値観が働いている可能性がある。たとえば宗教の場合、キリスト教徒とイスラム教徒に対する侮辱はヘイトスピーチの罪に問われることが少ないと米経済学者トーマス・ディロレンゾ(Thomas DiLorenzo)は指摘するウィキペディアによると、フランスのある裁判所では、キリスト教の十字架をナチ党の鉤十字になぞらえた映画のポスターはキリスト教徒への侮辱にあたらないと判断した。

フランスなど西側諸国の一部はこれまで、政治的な配慮にもとづき表現の自由を制限してきた。しかもその判断基準は御都合主義でゆがめられている疑いがある。表現の自由を本気で守りたいのであれば、みずからが抱えるこれらの問題にまず取り組むべきだろう。

2015年1月10日土曜日

マクドナルドと健全な資本主義

ハンバーガーチェーン店、日本マクドナルドの業績が悪化している。中国の食品加工会社の使用期限切れ食材の問題などが響き、客足が遠のいているためだ。今月には商品への異物混入が相次いで発覚し、メディアでは同社の「利益優先主義」「効率至上主義」を非難し、資本主義の欠陥を示すかのように論じる向きもある。しかしその非難は的外れである。

持株会社の日本マクドナルドホールディングスは、12月の既存店売上高が前年同月に比べ21.2%減ったと発表した。ポテトを仕入れている米国の西海岸で起きた港湾の労使交渉の長期化の影響で、「マックフライポテト」のMとLサイズの販売を一時休止したことが重荷となった。仕入れ先だった中国の食肉加工会社が使用期限切れ鶏肉を使っていた問題が昨夏明らかになり、消費者が利用を控える動きも続いているという。さらに商品への異物混入が発覚したうえ、それに関する会社側の説明が後手に回ったとして、批判にさらされている。

一部のメディアでは「利益を追い求めれば、それだけ安全にかけるコストが後回しにされがち」と紋切型の批判をしているが、もちろん間違っている。安全に必要なコストを後回しにし、その結果問題が起こり、商品が売れなくなれば、利益をあげることはできない。実際マクドナルドは売り上げ減少の影響を受け、2014年1〜9月期連結決算は最終損益が75億円の赤字となり、同12月期では上場後初の営業赤字に転落する見通しだ。

企業が本気で利益を追い求めるのなら、必要なコストをきちんとかけるはずだし、事実かけている。もしそうでなければ、いまごろほとんどの外食企業で衛生上の問題が生じているはずだ。マクドナルドは異物混入の原因を不明としているが、かりに同社のミスだとすれば、過ちは利益を追求しすぎたことではなく、利益追求の姿勢が不徹底だったことにある。

マクドナルドの業績不振は、資本主義の欠陥を示すものではない。同社ほどの大企業でも、ひとたび消費者の信頼を失えばたちまち売り上げが落ち込み、赤字に陥ってしまうという事実は、日本において、とくに外食市場において資本主義が健全に機能している証拠といえる。

資本主義がまともに機能していない産業では、様子が違う。消費者は電力会社の独占的なサービスや価格に満足できなくても他の会社から電気を買うことはできないし、銀行は放漫融資で経営危機に瀕しても政府が国民の血税で助けてくれる。

マクドナルドも政治的な恩恵をまったく受けていないわけではないだろう。しかし少なくとも、規制で他社との競争から守ってはもらえないし、赤字になっても税金で助けてはもらえない。消費者を向いた経営をしなければ生き残れない。

ところで、南米ベネズエラのマクドナルドでも港湾ストの影響で米国産ポテトが輸入できなくなり、キャッサバを原料とした揚げ物を提供しているらしい。AP通信の報道によると、店を訪れた女性客の2歳になる女の子は固いキャッサバを食べたがらず、おもちゃ付きセットの「ハッピーミール」がお目あてだという。APの記者はこう書く
マクドナルドは米国資本主義の究極のシンボルかもしれないが、ベネズエラの社会主義政府は、国民がハッピーミールを楽しんでいることをよくわかっているようだ。
反米で知られる社会主義国ベネズエラの政府でさえ、マクドナルドの商品が国民から愛されていることを知っている。そしてマクドナルドの店舗数が米国に次いで世界で2番目に多い日本の人々も、マクドナルドが大好きである。それは同社が聖人君子の集まりだからではない。利益を追求し、健全な資本主義を勝ち抜いてきた企業だからである。

2015年1月8日木曜日

パリ銃撃、真の教訓

パリ中心部の風刺週刊紙「シャルリエブド」本社に7日、覆面をした複数の人物が押し入り銃を乱射し、同紙の編集長を含む少なくとも12人を殺害したオランド仏大統領をはじめ欧米日首脳は「表現の自由への攻撃」と犯人を非難し、テロとの対決姿勢をあらためて鮮明にしている。物理的危害を加えられたわけでもないのに、他人を殺傷することが許されないのはいうまでない。だが政府の強硬姿勢を支持することが賢明とは言えない。

いきり立つ政府とは対照的に冷静な識者の見方を紹介しよう。米ジャーナリスト、ロバート・ウェンゼル(Robert Wenzel)は事件の第1の教訓として、シャルリエブド紙の社員たちが自衛の備えもないままに、報復をまねくような記事を載せたことが問題だったと指摘する

ウェンゼルは書く。人を怒らせれば、報復されるかもしれない。報復に対処したくなければ、人を怒らせるようなことをしてはいけない。政府は助けてくれない。

正気を失った人々を怒らせれば、報復も常軌を逸したものになるだろう。それがパリで起こった。明らかにシャルリエブド紙は、みずからが直面する脅威の大きさを計算しそこねた。代償は高くついた。

他人を怒らせることそのものは悪くない。知っておかなければならないのは、報復の可能性があるということだ。現実の世界では、報復はさまざまな程度で現実になりうる。報復に対処するすべがないのなら、最初から危険なゲームに手を出さないことだ――。

ウェンゼルは、パリの銃撃は恐ろしい出来事だと認めたうえで、こう繰り返す。「今回の教訓は、もし人を怒らせればつけ狙われる恐れが大きいから、それに備えなければならないということだ」。現実世界で身の安全を守るには、こうすればこうなると計算したうえで行動しなければならないという、常識的で冷静な戒めである。

ウェンゼルはもう1つの教訓として、政府関係者の便乗主義を挙げる。彼らはどんな悲劇にも飛びつき、将来の再発を防いでみせると嘘をつく。そして国民の財布からカネを奪い取ろうとする。「怖いのはこの犯罪者たちだ」とウェンゼルは辛辣に言う。「政府はこちらが何もしないのに襲ってくるし、それをいつまでもやめない」

元米連邦下院議員のロン・ポール(Ron Paul)はテレビ番組で、別の教訓に言及した。ポールによれば、銃撃は「おぞましい」ことだが、仏政府の対外介入政策に対する報復でもある。「フランスは介入政策のせいで長年(テロの)標的になってきた。最近はリビアに介入し、米国を引っ張り込んだ。アルジェリアにも介入し、今回のような攻撃をしばしば受けてきた。(パリ銃撃は)フランスの外交政策にもかかわりがある」

フランスを含む西側諸国は中東で侵略的な介入政策に携わり、何百何千もの人々の命を奪う一方で、独裁者や武装過激派をしばしば支援してきた。何もなしですむわけがない、とポールは指摘する。「報復をもたらしたのはこうした政策全般で、中東の人々は西側諸国を不法侵入者とみている。パリの事件のように彼らが西側諸国にやって来て一般市民を襲った場合、物事はそう単純ではない。しかしそれでも外交政策と切り離して考えることはできない」

ポールは正しい。西側諸国でテロ事件が起こると、今回のパリ銃撃のように、恐怖を煽るように詳しく生々しく報道される。しかし西側政府がテロとの戦いと称し、中東や中央アジアで多くの一般市民を殺傷する様子はほとんど報じられない。テロは許さないと激して叫ぶ前に、テロがなぜ起こるのかをよく考えなければならない。

米メディアの腐敗

北朝鮮を題材にしたコメディ映画にからみ制作元の米ソニー・ピクチャーズエンタテインメントがハッカー攻撃を受けた問題で、オバマ米大統領は先月19日の記者会見で「攻撃は北朝鮮によるもの」という公式見解を示し、その後同国への経済制裁を強化する方針を決めた。政府見解には専門家から疑問の声も少なくないにもかかわらず、政府の強硬姿勢を世論は後押ししている。その背景には、政府見解を無批判に報じる米大手メディアの姿勢がある。

エドワード・スノーデンの内部告発に協力したことで知られるジャーナリスト、グレン・グリーンウォルドが、こうしたメディアの姿勢を以下のように厳しく批判する

米政府による北朝鮮叩きは事実上、オバマ大統領の会見の2日前に始まっていた。ニューヨーク・タイムズ紙が12月17日付紙面で匿名の「政府高官」を情報源として、北朝鮮がハッカー攻撃を命じたという国民の怒りを煽る主張を広めたのである。ワシントン・ポスト氏も匿名の高官を引用して同様の報道をおこなった。

北朝鮮犯人説には多くの専門家が疑義を表明していた。しかしジャーナリストの多くはひたすら政府見解をおうむ返しに繰り返した。そして厳しい報復を議論し、しばしば報復を求めさえした。報道の大きな方向を決めたのは、米主流メディアの相も変わらぬ大方針である。「政府の言い分は真実として扱え」

ニューヨーク・タイムズ紙のパブリック・エディター、マーガレット・サリヴァンはハッカー攻撃に関する同紙の元の記事をたしなめ、「この記事には懐疑心がほとんどない」と書いた。サリヴァンはさらに、政府高官に匿名を認めたことで、匿名報道に関する同紙自身の内規を破ったとつけ加えた。この内規は、イラクに大量破壊兵器があるという匿名の政府高官による嘘の情報を真実として報道した失敗への反省から設けられたものである。

北朝鮮はソニー・ピクチャーズ攻撃に関与したかもしれないが、実証されたというにはほど遠い。ところが米メディアの多くは、まるで事実のように扱っている。

大量破壊兵器の偽情報にもとづくイラク開戦から11年目、ベトナム戦争の口実とされたトンキン湾事件から50年目の現在、米国民なら誰でも政府がしょっちゅう嘘をつくことを知っている。ジャーナリストなら誰でも、証拠もなしに政府の主張を真実として報じることは、メディアが政府の情宣活動の道具になりさがる早道だとよくわかっている。そう述べた後、グリーンウォルドは次のように手厳しく書く。

米国のジャーナリストがそのような行為に手を染めるのは、その結果どうなるかを知らないからではない。逆に、知っているからこそやるのだ。それこそ彼らがやりたくてたまらないことなのだ。大手メディアのジャーナリズムが腐敗するのは証拠もない政府見解を無批判に広めるからだと一般国民が知っているのであれば、ジャーナリストだって知っている。ジャーナリストにそんなことはやめろというのは、買いかぶりである。彼らは権力の監視という見せかけの使命にふさわしく振る舞おうとしてなどいない。権力の監視は看板にすぎない。ほんとうにやりたいとも思っていないし、その役割を果たしてもいない。

「戦争の最初の犠牲者は真実である」という言葉がある。逆に言えば、公式見解を疑い、真実を追求する報道の精神が衰えたとき、新たな戦争が近づく。グリーンウォルドの怒りに満ちた文章は、そう訴えかけているようだ。

2015年1月6日火曜日

さらばデフレ悪玉論

原油価格が1バレル50ドルを割った。急速な原油安について経済専門家の間では、デフレ脱却がむずかしくなると懸念する声はあるものの、総じていえば経済にプラスとみる向きが多い。しかし、もし原油価格の下落が経済に良いことであれば、なぜ物価全体の下落、つまりデフレは悪いことだと多くの専門家は言うのだろうか。なにかおかしくないだろうか。 

米経済評論家ピーター・シフ(Peter Schiff)は、もちろんおかしいと断言する。物価の下落は経済の素人には喜ばしいことなのに、専門家は不景気の悪循環に導くと信じている。ところがその同じ専門家が、エネルギー価格の下落は中低所得層を中心に大幅減税に等しい景気刺激の効果があると認める。物価上昇は経済にプラスが持論のイエレン連邦準備理事会議長まで、原油安の利益をほめそやした

けれども、もしエネルギー価格の下落が利益をもたらすのなら、なぜ食料品について同じことが言えないのだろうか、とシフは問う。食料品店への支払いが大幅に減れば、それは消費者にとって大幅減税と同じではないか。ヘルスケアはどうか。病院代や保険代が大幅に減ればみんなが得をするではないか。そう考えてゆくと結局、あらゆる価格の下落は利益ではないか。

今の経済学者たちによれば、1つか2つの分野の商品が値下がりするのは良いけれども、それが多くの商品に広がると危険が迫る。消費者がさらなる値下がりを期待して商品を買い控え、不況を招くからだと言う。

しかし真実は違う。政府の宣伝とは違い、デフレは消費者や企業にとって脅威ではない。常識と基本的な経済学が教えるように、価格の下落には理由が2つある。供給の過剰あるいは需要の不足である。どちらの場合も物価安は経済活動を助ける。害にはならない。

米国史上のほとんどの場合、生産性が高まると商品の供給が増え、価格を押し下げた。「合衆国歴史統計」によると、建国後150年間にわたり、デフレが続いた多くの局面でも経済成長は妨げられなかった(インフレが続くのがあたり前になったのは、連邦準備制度が発足した1913年以降である)。

どんな店の主人でも、お客が商品を買わなくなり在庫が積み上がれば、新たな需要を生み出す最善の方策は値下げと言うだろう。これは需要と供給のイロハである。価格が下がれば需要は増える。

ところが今の経済学者たちはこの根本法則を書き換えようとしている、とシフは指摘する。彼らから見ると、価格が上がれば需要は増える。まるで雨が降るのは歩道が濡れているせいだから、歩道を乾かせば雨は上がると言うようなものだ。

イエレン議長は、ガスの値下がりは消費者にプラスの効果があると認めたけれども、値下がりして消費者に負担になるような商品を議長は1つでも言えるだろうか。言えはしまい。もしどれか1つの商品の値下がりが良いことならば、あらゆる商品が同時に値下がりすることはもっと良いことのはずだ。

おそらくこの食い違いは、中央銀行が隠したがっている事柄に一筋の光をあてるだろう、とシフは言う。消費者物価の下落は、消費者と経済にとっては良いことである。だが資産バブルを崩したくない中央銀行と、借金を踏み倒す体の良いやり口を探す政府にとっては、悪いことなのだ。

政府・中央銀行が繰り返す「デフレは悪」という嘘の怪しさに人々が気づきはじめた。これは原油安がもたらした最大の恩恵かもしれない。

(関連記事)「デフレは惡い」のウソ

ロン・ポールの控えめな提案

徹底した自由主義者(リバタリアン)として知られる米国の元連邦下院議員ロン・ポール(Ron Paul)が新年を機に、議会に十の決議案を提案している。彼の首尾一貫した考えがよくわかるので、少し長くなるが全項目を紹介しよう。

(1)在外米軍の撤収
 超介入主義的な外交政策を終わらせるために、在外米軍を撤収させ、海外基地設備をすべて閉鎖する。米国民は帝国のコストを負わずにすむようになる。

(2)連銀監査法案の可決
 連邦準備銀行の金融政策が、多額の予算を使う政治家や金融エリートを潤し、一方でふつうの米国人を害している実態を、国民は知る資格がある。

(3)愛国者法の廃止と国家安全保障局の抑制
 エドワード・スノーデンによって国家安全保障局(NSA)がどれだけ憲法違反のスパイ活動をおこなっているかが明らかにされてから、やがて2年になる。しかし議会はいまだに監視国家を綱につなぐことを拒んでいる。令状主義を定めた憲法修正第4条の尊重を取り戻すため、情報監視の根拠とされる愛国者法第215条を失効させなければならない。

(4)運輸保安局の廃止
 米国人の航空旅客すべてを犯罪容疑者として扱い、わずらわしくて屈辱的な検査に従わせても、国民の安全はまったく強化されない。運輸保安局(TSA)を廃止し、飛行機の安全に関する責任は航空会社に返すべきである。政府が邪魔をしなければ、民間企業は乗客乗員の安全をきちんと守れる。

(5)企業助成の全廃
 政治に結びついた企業に補助金その他の特別な便益を与える連邦政府の政策は、経済上の不平等をもたらし、市場をゆがめ、血税を浪費する。貧困層への助成を削減する前に、富裕層への助成を削減することは、政治的にも道徳的にも理にかなう。まずは米国輸出入銀行(EIB)と海外民間投資会社(OPIC)を廃止しよう。シェルドン・アデルソン氏が主張するオンライン賭博禁止のような、特定の産業や個人に利益を供する法案も拒否しなければならない。

(6)オバマケアの撤回・代替
 オバマケアのせいで、米国人の多くが医療保険を失い、他の人々はヘルスケアのコスト増大に直面している。オバマケア撤回はほんの第一歩。ヘルスケア市場をゆがめる連邦政府の政策をすべてやめ、真に自由な市場を取り戻さなければならない。

(7)警察軍隊化の中止
 8月にミズーリ州ファーガソンで丸腰の黒人少年マイケル・ブラウンが警察官に殺害された事件をきっかけに、警察の軍隊化が全国で議論を呼んだ。地方の警官隊に軍装備品を供給する連邦政府の政策は、すべて中止しなければならない。

(8)教育省の廃止
 米国の教育悪化が連邦政府による教育支配の強化と軌を一にしているのは、偶然ではない。連邦政府のあらゆる教育予算を引き揚げ、教育の権限を地域社会と親に戻さなければならない。

(9)個人の脱退権
 自由な社会を立て直す前向きな一歩として、オバマケアその他の連邦政府の強制保険から個人が脱退する自由を認めなければならない。若者は望めば、社会保障と医療保険の給付を受けない代わりに、社会保障税と医療保険税を納めなくてよいようにすべきである。

(10)州政府の脱退権
 連邦議会で対麻薬戦争の中止やオバマケア撤回、その他憲法違反の政策の中止を可決できない場合、少なくとも州がこれらの分野で独自の政策をおこなう権利を尊重すべきである。オバマケアを無効に、マリファナを合法にする州法を連邦政府が禁止するようなら、州の権限留保を定めた憲法修正第10条の意図とあべこべになってしまう。

大胆すぎると驚く人も少なくないだろう。しかしポールにいわせれば、自由の国だったはずの米国の病状はそれほど深刻ということである。現状を放置すれば、「独裁政治、帝国、国家破産、経済衰亡に向かってじわじわと滑り落ちてゆく」とポールは警鐘を鳴らす。もちろん日本にとっても対岸の火事ではすまない。

2015年1月5日月曜日

市場は弱肉強食か

市場経済というと、「弱肉強食」という言葉がきまってついてくる。しかしその形容は間違っている。暴力に物をいわせて弱いものから財産を取り上げたり、無理やり何かをやらせたりするのは、互いの合意にもとづく市場経済ではなく、政府である。

経済学者ゲイリー・ギャルズ(Gary Galles)は「資本主義制度を弱肉強食として描くのは、現実とは正反対」と断じる。資本主義の土台となる私有財産は、自発的な合意によってのみ成り立つ。弱者が自分の権利侵害にすすんで同意することはないから、資本主義は権力にもとづく強制から弱者を守る。哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の言葉を借りれば、資本主義は「弱者を強者から守ることにこだわる」。

弱肉強食という言葉は、戦争にあてはめることはできる。しかし戦争は市場の失敗ではない。政府による政府の攻撃である。また、政治にもあてはまる。法学者ブルーノ・レオニ(Bruno Leoni)が述べたように、政治は戦争と同じく、「少数者を服従させ、敗者として扱うためだけの手段」になりつつある。これらは政府の所業であり、自由な合意で成り立つ市場経済とはまったく無縁である。

動物の世界における競争は、限られた自然の資源をめぐるゼロサムの争いである。しかし人間は他の人のために生産するし、誰もが取引を通じて互いに得をすることができる。だから市場における競争は、大幅なプラスサム・ゲームとなる。ある人の利益は同時に他の人の利益にもなる。

人と動物の競争の違いは、アダム・スミスの『国富論』第2章にも書かれている、とギャルズは指摘する。人には「ものを交換しあう性質」があり、「この性質は人類に共通しており、他の種の動物にはみられない」。動物の場合、「二匹の犬がじっくりと考えたうえ、骨を公平に交換しあうのを見た人はいない」。しかし「人は交渉や交換、売買によってそれぞれが必要とする助力のかなりの部分を手に入れて」いる。人間社会に分業が始まったのは、ものを交換しあうこの性質のためである。

ギャルズは最後にこうまとめる。

弱肉強食という言葉は、戦争や政治、政府の失敗を理解するにはいくらか役に立つ。これらがすべて自由を破壊する行為だからである。しかし参加者の権利尊重を旨とする経済の自由を、「なんでもあり」で血みどろの生存競争として描くのはおかしい。そのような「俺が勝ち、お前が負け」という行動は、天然の限られた資源に原因がある。しかし限られた資源しかないのは、生産や自発的交換がない場合だけである。資本主義にはあてはまらない。資本主義は他のいかなる社会的「発見」にもまして、ゼロサムの争いの代わりにウィンウィンの可能性を高めてきた。自分自身とその生産物に対する所有権が尊重されるかぎり、つまり合意が自発的であるかぎり、生産と交換を通じてすべての人が得をする。互いに利益をもたらす人間の社会は、弱肉強食の世界とは似ても似つかない。

弱肉強食という野蛮な比喩がふさわしいのは、ギャルズがいうとおり、市場ではなく政治である。にもかかわらず政治家が繰り返しこの決まり文句を口にするのは、おそらく「犯人はあいつだ」と無実の人を指さす犯罪者と同じ心理からではないだろうか。

2015年1月3日土曜日

レーガンの神話

「小さな政府」の例としてメディアできまって持ち出されるのは、1980年代米国のレーガン政権(1981年1月〜1989年1月)である。しかしレーガンが小さな政府を実現したというのは完全なウソだし、実現するつもりがあったかどうかも疑わしい。

米マザー・ジョーンズ誌(電子版)の記事によれば、レーガン共和党政権下で政府債務は3倍近くに増加した。1980年に9,070億ドルだったのが1988年には2兆6,000億ドルになっていた。

レーガンは1988年の退任演説を「政府が制限されないかぎり、人間は自由ではない」と締めくくった。しかしその演説をおこなったのは、政府の規模が長期間にわたり膨張した末のことだった。レーガン政権下で連邦政府職員数はおよそ32万4,000人増加し、約530万人となった。これは冷戦で兵士の数を増やしたからだけではない。増加人数に占める軍関係者の割合は26%にすぎない。

対照的に、クリントン民主党政権(1993年1月〜2001年1月)下で政府職員数は過去数十年で一番少なくなった。「共和党員はレーガンの小さな政府哲学を賞賛する代わりに、クリントンの行動を指針にしたほうがよいかもしれない」とマザー・ジョーンズ誌は皮肉る。

小さな政府を徹底して主張したリバタリアン(自由主義者)、マレー・ロスバード(Murray Rothbard)はレーガン退任直後の1989年3月に発表した記事で、レーガン政権は表向きリバタリアンの美辞麗句を連ねるだけで、政策の中身は国家主義的だったと批判した。ロスバードは書く。「『レーガン革命』などなかった。自由をめざす『革命』ならかならず、政府支出の総額を減らすはずである。それはあくまでも絶対額を意味するのであり、国民総生産に占める割合や物価上昇調整後の値などではない」。レーガンは任期初年の1981年ですら、政府支出を減らさなかった。

レーガンの歴史的役割は、ベトナム戦争やウォーターゲート事件をきっかけとして1970年代米国に噴き出した反政府、準リバタリアンの大きな波を取り込み、骨抜きにし、最後は打ち砕くことにあったとロスバードはみる。だから反政府は雰囲気だけにすぎず、リバタリアンとしての具体的な政策もなかった。むしろ支持層の一つである軍産複合体(military-industrial complex)に巨額の軍事費を注いだ、とロスバードは指摘する。

レーガン政権のおこなった政策が「小さな政府」ではなかったという事実は数字をみれば誰でもわかることであり、以前からその図式は誤りだと折にふれて指摘されてきた。それを反映してか、レーガン政権の経済政策を指すレーガノミクスについて、ウィキペディア(日本語版)の解説に「小さな政府」という言葉は一度も使われていない。

ただし解説の出来は良くない。レーガノミクスは「自由主義経済政策」で「市場原理と民間活力を重視」したといいながら、「社会保障と軍事費の拡大で政府支出を拡大」させたと矛盾したことを平気で書いている。支離滅裂である。

レーガン政権の政策は「大きな政府」であり「国家主義」だった。これはシンプルな事実である。それにもかかわらず、メディアや知識人の多くは、あれは「小さな政府」であり「(新)自由主義」だったと当然のように書く。こんな神話がいつまでもまかり通るようでは、まともな経済論議などできるはずがない。

2015年1月2日金曜日

GDP増えて経済滅ぶ

国の経済成長を示すのは国内総生産(GDP)である。だから企業や個人が不況で支出を増やせないときには、政府が公共事業を拡大したり、失業者を公務員に雇ったりしてカネをどんどん使えばいい。そうすれば定義上、GDPは必ず増加し、したがって景気は回復する――。評論家政治家でこのように主張する人は少なくない。しかしこの意見は、政府のカネ遣いを民間と同列に扱うGDPの欠陥を見落としている。

経済学者ジョセフ・サレルノ(Joseph T. Salerno)が、この種のGDP信仰が現実の経済からいかにかけ離れたものか、わかりやすく説明している

ある島では、民間で年に1,000個のリンゴを生産するとしよう。このうち200個は、島の政府が税として徴収し、軍隊の費用に充てる。「テロの潜在的脅威」をなくすため、隣の島に侵攻するのである。ケインズ経済学に根ざした通常の国民所得計算によれば、GDPはリンゴ1,200個となる。すなわち、課税前の1,000個と、国防という「公共財」を提供する軍隊に支出された200個の合計である。

さて翌年、侵攻作戦が終了したとしよう。島の政府は軍事費削減を決め、課税をリンゴ100個分減らす。他の事情に変わりがなければ、GDPは1,200個から1,100個(政府部門100個と民間部門1,000個の合計)に減る。

しかしちょっと待ってほしい。リンゴは自発的に生産されたものだから、それをつくるために投入されたコストよりも高い価値があるとみなされたのは明らかである。ところが政府が提供する軍事サービスの場合、コストよりも高い価値があるかどうか、民間の生産者や消費者がはっきり示した証拠はない。なぜなら政府軍事費は、民間から強制的に取り立てられたものだからである。民間人に選ぶ権利はなく、したがって何の価値判断も示せない。政府の無駄遣い体質を考えれば、生み出す価値はゼロかもしれない。

これは政府支出の対象が軍隊でなく、たとえば病院でも同じである。自発的な生産と交換がなければ、財やサービスの価値を確かめるまともな方法はない、とサレルノは述べる。

このためケインズ経済学に異を唱えるオーストリア学派経済学では、経済全体の生産を計算する際、政府支出を加えない。サレルノは経済学者マレー・ロスバードにしたがい、島の経済を計算し直してみせる。まず民間の総生産は、政府の軍事費200個を加えないので、1,000個である。

しかし実際には税金分の200個を徴収されているので、正味の民間生産はこれを差し引いた800個となる。これをオーストリア学派では「残余民間生産」(PPR)と呼ぶ。つまり政府支出は、民間の生産に加えるのではなく、むしろ除かなければならない。これが生産活動に従事する民間人の実感に即した計算であろう。

島の政府が軍事費をリンゴ100個分減らすと、ふつうのGDPは1,200個から1,100個に減るけれども、オーストリア学派の考えにしたがえば、課税が少なくなる分、逆にPPRは800個から900個へと増加する。さらに、増えた100個の一部はリンゴの生産を増やす投資に回されるだろうから、長期では島の経済成長は加速する、とサレルノは指摘する。

GDPは経済の現実を適切に反映していない。そのことを無視し、景気対策と称して政府支出を拡大すれば、民間の活力を奪い、経済をますます疲弊させてしまうだろう。

2015年1月1日木曜日

国家は憎しみを煽る

あけましておめでとうございます。今年も「リバタリアン通信」をよろしくお願いいたします。

ヘイトスピーチや「反韓本」「反中本」の氾濫など、近隣諸国民への憎悪をむき出しにしてはばからない風潮が強まっている。憎しみの源を探ると、領土問題、軍拡問題、教科書問題など、いずれも国家が独占的にかかわる事柄に発する。市場経済が人々の国境を越えた協力を促すのと対照的に、国家は人々を分断し、互いに反目させる。そして憎しみを煽る。なぜなら人々が国境越しに憎しみ合うことは、国家によって好都合だからである。

19世紀英国の哲学者、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)は、こうした国家の悪しき性質を見抜いていた。著書『人間対国家』で、国家はみずからの行為を正当化するため、「憎悪の宗教」というべき思考を国民の間に醸成すると指摘する

スペンサーは言う。文明化されていない社会の人々には、自発的な協力を広範囲にわたっておこなう資質が備わっていない。だから社会進化の長い段階を通じ、政府の権力が必要とされる。それには政府に対する信仰と服従がともなう。それからほんの少しずつ、自発的な協力が強制的な協力に取って代わってゆく。それにふさわしく、政府の能力と権威に対する信仰も弱まってゆく。

しかし政府への信仰はなかなか消え去らない。それが維持されるのはおもに、戦争への適応力を維持するためである。政府への信仰が維持されることにより、政府とその関係者は、攻撃や防御に際し社会のあらゆる力を動員できるという自信を持ち続けられる。だからそれに必要な政治理論も消え去ることがない。

政府への信仰と服従を支える心情と思想は、平和を絶え間なく脅かす。しかし国民が政府の権威を信仰しないかぎり、政府は国民に十分な強制力を及ぼして戦争をすることができない。その信仰はいやおうなく、戦争以外の目的についても政府に国民に対する強制力を与えることになる。

憎悪の宗教(religion of enmity)が友好の宗教(religion of amity)よりも優位に立つかぎり、現在の政治的迷信は揺るがない。欧州各国では月曜日から土曜日まで、支配階級の古い文化によって、戦場で大きな武勲をあげた古代ギリシャの英雄を称え続ける。そしてわずかに日曜日だけ、剣を鞘に納めよというキリスト教の戒めを説くのである――。

スペンサーがいうように、政府は国民を戦争にいつでも動員できるように、国家のために死ぬことはすばらしいという考えを刷り込む。そして敵となりうる国やその国民に対する憎悪を煽る。今は戦時中の「鬼畜米英」「暴支膺懲」のような露骨なスローガンを政府自身がふりかざすところまではいっていないが、それも遠くはないかもしれない。

なおスペンサーというと、社会進化論という弱肉強食の論理を説き、帝国主義を正当化したとんでもない哲学者だと誤解している人が多いことだろう。しかしそれはスペンサーを読んだこともない、あるいはわざと曲解した人々が広めたデマである。上記の文章でわかるように、スペンサーはたしかに社会は進化すると考えたけれども、それは強制的な協力で成り立つ暴力的な「軍事社会」から、自発的な協力で成り立つ平和的な「産業社会」への進化であった。弱肉強食の擁護とは正反対である。